日本人の謙遜。
大学受験系のブログを書くと決めていたが、僕個人の戯言も書くことにした。
そんな戯言シリーズ第一弾は、「日本人の謙遜」についてである。
古くから、日本人社会において「謙遜」は美しいと認識されてきた。現在もそれは変わらない。しかし、本当に「謙遜」は美しいのだろうか。独自の分析をしてみた。
謙遜の定義
辞書で「謙遜(けんそん)」を引いてみると、”へりくだること”や”控えめでつつましい態度”と出てくる。
日本社会ではこの”つつましい態度”が美しいとされていのだ。
例えば、何か自分が褒め称えられる功績を残したと仮定すると、日本人はこういう会話をするだろう。
他者「すごいじゃないか」
自分「そんなことありませんよ、他者さんの方が優れていますよ」
本来なら素直に褒められればいいものの、我々日本人は軽めに否定し、さらには相手を立てることまでする。
こういった一連の言動を「謙遜」というと勝手に解釈している。
謙遜のメリット
定義でも書いた通り、謙遜することは本来称賛される側ではない第三者を立てる場合もあるのだ。よって、第三者をいい気分にさせることができる。これが第一のメリットだ。
第二のメリットは、「自分は欲張りませんよ」と周囲にアピールすることが出来ることである。素直に褒められないで、少し遠慮するような態度をすることにより、周囲の人間に「欲張らない人」であることをアピールすることができる。周囲に人間がいなくても、日本人の心理的に相手にも好印象を持たせることが出来るのだ。
謙遜のデメリット
ここまで書いてきたが、謙遜はとても素晴らしいことではないかと思う方も出てくるだろう。しかし、デメリットも実際はあるのだ。
それは、海外に行ったときに謙遜する態度を取ると、不快な気分にさせてしまうことがあることだ。
西洋のとある国で謙遜した場合はこうなることがある。
他者「すごいじゃないか!」
自分「そんなことありませんよ」
他者(・・・私の称賛を否定するのか?!)
こんな感じで他者を不快にさせてしまう可能性が生じる。
まとめ
謙遜という文化は「日本独自」の文化や美しさであり、海外では通用しない場合はあるのだ。グローバル社会においては、謙遜という行為は機能することはあまりないだろう。しかし、謙遜することは素晴らしい伝統文化であり古き良き風習だと思う。